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東京大学名誉教授。
06 年1月「超バカの壁」を上梓、早くもベストセラーとなる。また、独自の環境論や無類の昆虫収集家としても有名。最近寸暇を惜しんで取り組むのが「デジタル昆虫図鑑」。どこにでもいるムシから、すでに絶滅したとされるムシまで様々だ。「一芸は百芸に通じる。それが人生のどこかで必ず役に立ち、独自の人生を築き上げる礎となる。だからこそ、子どもたちには様々なきっかけを与えたい。」緑豊かな初夏の箱根、子どもたちとの昆虫採集を通じて、子どもと自然、教育を考える。

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子どもは緑と同じ自然である。こういう定義は私が勝手にしたもので、だれか偉い人がそういったわけではない。
どうして自然なのか。人間が意識で設計したものではないからである。車とか、建物とか、学問とか、そういうものは、人間が「考えて作った」のだから、自然ではない。まさに人工である。ところが子どもには設計図がない。それなら自然というしかない。
その自然をだんだんに人工の世の中に慣らしていく。それが子育てである。その原則は手入れだと書いた覚えがある。手入れというのは稲を育てることと同じである。米をたくさん収穫しようと思って、やたらに肥料を入れたら、稲が枯れる。子どもも同じである。まさに塩梅を見ながら、毎日根気よく続けていくしかない。いまの人がそういう作業を苦手とするのは、よくわかっている。ほとんどの人はもはや稲を育てないからである。つまり自然物を直接相手にすることがまずない。それなら自然の取り扱いが下手になって当然である。
そういう理屈をいわなくても、歳をとると子どもの相手が楽しい。あまりマジメに相手をすると、親に叱られる。だから適当に面倒をみる。孫を相手にするのと同じである。年寄りが盆栽をいじったり、庭の手入れをするのも、根本は同じであろう。歳をとると、自然の相手をするしかない。人間相手は疲れる。世間の常識が、自分の常識とは、ずれてくる。怒ったところで、無益である。無視されて終わり。それなら自然を相手にするしかない。
自然の相手をすることが、苦痛だと感じるのが現代人である。でも素直に考えたら、若いうちならともかく、刺激の多い都市生活のほうが苦痛だと思うはずである。だから過疎地は年寄りばかりという現象が起こる。やむを得ず過疎地に住んでいるというより、好んで住んでいるというしかないことが多い。
それでも都会の人は医療が問題だという。過疎地では十分な手当てが受けられない。そう考える。そうかもしれないが、はじめから病気を中心にして生活を考えるのも、どうかと私は思う。ヘリコプターのような道具を用意せよ。公共にそういう要求をする可能性もある。その意味で自分から社会を変えていくことが、日本の人は苦手ではないかと感じる。自然のなかで暮らすことに、そこまで思い入れがないのであろう。でもそろそろそこまで思ってもいいのではないか。私はそう思う。
私が子どもに自分で教えられるのは、虫取りだけである。こういうものは、教える必要すらない。機会を与えるだけでいい。あとは子どもが勝手に動く。教師なら、そういうことはできない。だって給料をもらっているのだから、子どもが勝手に動いたのでは、仕事をしたことにならない。それでは給料がもらえない。だから教育は子どもの嫌いなことをさせるのである。子どもの相手をしていると、先生でなくてよかった、としみじみ思う。無責任だが、たかが虫取り、もともと軽いことだから、無責任でいいのである。
| 和名 | ツシマカブリモドキ |
|---|---|
| 科目 | オサムシ科 |
| 学名 | Damaster fruhstorferi |
| 体長 | 45mm |
| 分布 | 対馬 |
対馬だけに棲むオサムシの仲間。カタツムリを食べることで知られるマイマイカブリの近縁種。春、越冬した成虫は8mmほどの巨大な卵を数十個土中に産卵。孵化した幼虫はカタツムリやミミズなどを食し、1回脱皮した後、蛹になり、成虫となる。孵化から成虫になるまでわずか40日ほどしかかからないことが飼育観察などで確かめられている。新成虫は夏、盛んにカタツムリなどを食べて活動し、冬は土中に潜って冬眠する。



映画館の迫力とは何か。スクリーンの世界に引き込まれる美しい映像、手を伸ばせばそこに触れられるかのようなリアルな色合い。